前回は、諫早の永昌宿から大村宿まで約12キロの旅だった。歴史の道100選にも選ばれている日野峠を通ったりと楽しい歩き旅だった。そして今回は、大村宿から彼杵宿までの歩き旅だ。
今回はスタート地点は前回歩き終えた大村のアーケード街の端っこからだ。
大村家の菩提寺であり、代々の藩主や一族家臣の墓がある国指定史跡・大村藩主大村家墓所がある本経寺に立ち寄る。
キリシタン大名だった大村忠純の嫡男、喜前は3歳のころ洗礼を受けていたが加藤清正の強いすすめもあり、領土安堵のためにもキリシタン大名の名を捨て日蓮宗に改宗し、1608年に本経寺を建設した。
日蓮宗に改宗後、歴代藩主によって神社仏閣の創建が相次いだそうだが、幕府の警戒心を解くためか、あえて長崎街道からよく見える場所に建てられたのではないかと言われている。
このあたりで地図を眺めていると、ウォーキング中のおじさんに声を掛けられた。「もしかして長崎街道を歩きよっと?」ズバリ当てられてしまったので旅の行程を説明しながら、おじさんと途中まで一緒に歩きつつ、道を教えてもらった。おじさんありがとう。
支柱があるところから右へ曲がる。隣には道案内のおじさんがいる(笑)
ここの交差点では長崎街道の案内板は左へ出ていたが、おじさんが言うにはまっすぐ行って左へ曲がれ!とのこと。
あとで地図を確認したら、おじさんが言う道が正解だった。自治体が設置している案内板はなるべくわかりやすい道順で案内しているのかもしれない。
おじさんが言っていた、まっすぐ行って!のまっすぐ道の入口の写真。
実は大村には新旧2つの長崎街道がある。今、通ってきた道程は千葉朴枕が1665年に付け替えた道だ。
千葉朴枕は4代藩主純長の命により、放虎原を開拓した。そして長崎街道の整備もおこない、街道沿いに植えた松や桜は旅人を楽しませたそうだ。
千葉朴枕屋敷跡を通り過ぎると道路の向かい側に八坂神社がある。
ここまでの道程の間に、妻子別れの石、首塚、胴塚など「都崩れ」というキリシタン弾圧関連の場所もあるのだが、今回の旅ではあえて立ち寄らないことにした。理由としては、先が永い旅なのでゆっくりする時間がない。というのが主な理由だ。その地で案内板などを読むとすぐには歩く気持になれそうにないので立ち寄らないことにした。また時間を取って別の機会に立ち寄りたいと思う。
大村市内を歩くのは初めてだったと思う。車中からは気づくことができなかったが、国道34号線沿いには長崎街道の看板が多くみられた。
大村の町は平地で歩きやすい。長崎県の市町村で人口が増えているのは大村市だけと聞く。実際に歩いてみると生活しやすそうな街並みだと感じるところも多い。九州新幹線西九州ルートでは大村に新幹線の駅が出来る。西九州ルートが開業すると一気に活性化しような予感のする町だ。長崎空港もあるし地理的にも長崎県の中心部である。今後の大村市に大注目だ。
長い間国道34号線沿いを歩いてきたが、虹の原特別支援学校の手前から斜め右へと脇道に入る。入り口に消防署の出張所もある。
昔の人は飛び石は渡っていたらしいので、マネしてみようかと思ったけど無理!
再び国道34号線に出てくる。ここを横断して向かいの路地へまっすぐ進む。
路地から国道34号線に戻ってくる。ここでお昼休憩だ。ボクのお気に入りのレストランスココーヒーでランチ休憩だ。街道沿いにあるレストランで日替りランチが美味しいので休憩にオススメだ。
食事を終えた、再び長崎街道歩き旅だ。スココーヒーから少し歩いたところで松原宿の矢印がある。
「鉄の縋で名高く、武器、小刀その他の鉄製品を産出する」と江戸参府紀行に書かれている。
ボクは気付いてしまった。街道沿いの小さな町に銀行は無いけど、郵便局はある。
当たり前というかすごいというか、表札を見たら現在も伊東さんが住んでいた。歴史!
松原八幡宮が見える交差点には、昔ながらの姿を残した1軒の建物がある。
ここ旧松屋旅館では、建物の中を見学することができたハズだ。ハッキリしたことを調べることができなかったが、土日など、休日には中を見学できたハズです。興味がある方は調べてみてください。
松原宿はなかなか素敵な街並みだ。とても静かだし、JRの駅もあるし、住みたいな!と思った。
松原宿素敵な街なので来たことが無い方は1度訪れてみてはいかがでしょうか。
宿場町を抜け、街道を歩き始めてすぐのところに大きな墓石がある。相撲取り墓と呼ばれるこの3基の墓。どのような活躍をした力士なのかわからい。というから不思議である。
種田山頭火も昭和7年春にこの道を歩いている。
「大村湾は美しい。海に沿っていちにち歩いた。どこもうつくしかった。・・・歩いているうちに、ふと梅の香りが鼻をうたった。それが私をさびしい追憶に誘った。梅の香もおもいでのさびしさに」(山頭火日記)
江戸時代の松原宿は長崎街道有数の松原が存在していた。しかし、戦前に海軍航空隊飛行場が近くにでき離発着の航空機の障害になるという理由で伐採されてしまったらしい。
現在、少しではあるが、再び松が植えられている。が当時とは比べようもないという。
遠くに見えているのが今日の目的地の彼杵方面かなと思いながら、遠いな・・・とヘコむ。
大村市から東彼杵町へ入るかというところにあったバス停に鯨の絵が描いてあった。東彼杵は鯨の町だ。
残念ながら東彼杵町に入ってから長崎街道の矢印看板が無くなった。こういう場面でその町の長崎街道への取り組み方が如実に表れる。
スマートフォンで地図を確認しながら進むが道がよくわからない。とりあえず、ここから右へ坂道を登ってみる。
小高い丘に登ってくると、さっきまでいた松原の海が遠くに見える。
スマートフォンの地図を頼りに田んぼ道を通って行く。ここを左へ曲がる。
完全に私有地の予感がする。地主さんが出てきて怒られたりしたらイヤだな。と思いながらも先へ進む。
田んぼ道を歩いていると柵がしてあった。あー通れない。来た道戻るとか無理だぁ!と思ったら。
1枚の貼り紙があった。やはり私有地のようだ。長崎街道を歩いている人へ向けてのメッセージがあり快く道を通らせてもらえることに喜び感謝した。
もう1ヶ所に網があり、そこの貼り紙には「不明の点は近くの家にお尋ねください」とあった。一般の人がここまでしてくれているのに、東彼杵町はナニやってんだ。
才貫田駕籠立場跡の石碑があった。正しい道を進めているようだ。
長崎街道の看板もあるのだが、どうも立てる場所の的を射ていないような。
千綿中学校の手前にある畑道から大村湾を眺めたところ。とても眺めが良い。
千綿中学校前の坂道をくだり、千綿児童体育会の横を国道へ向けて歩く。
再び国道34号線沿いを歩きハウステンボスの看板の裏を右手に登る。
ここをまっすぐ行くと川に突き当たり行き止まりとなる。左へ曲がると国道へ戻る。
セブンイレブン八反田店が遠くに見えている。喉が渇いたが街道から大きく外れてしまうので我慢。
橋を渡りきったところで向かい側に渡らないといけないんだけど、道がない。と思ったら
茶の輸出の先駆者である大浦慶のお茶の農産物を出荷していたそうだ。
千綿の街並みは少しさみしい感じがした。JRの駅が町からはずれたことにより町が静かになっていったそうだ。
この度で1番の登り坂だった。終盤での急な坂道は足にこたえる。自動車関連のお店があるところから左へ坂をくだる。
京都から彼杵まで歩いた二十六聖人はここから時津に向けて船に乗った。
彼杵にも思案橋があった。ここ思案橋は長崎街道と平戸街道の分岐点だ。
今日の目的地、東彼杵町役場前交差点に無事たどり着くことができた。
さいごに
長崎街道を歩く4日目。大村から松原までは見所も多く素敵な街並みが続き、ずっと平地だったということもあり楽しくあるくことができた。しかし、東彼杵町に入ってからは案内板も少なく疲れもあり歩くのに苦労した。
たんだんと長い距離を歩けるようになってきたので、すこしづつ距離を伸ばしながら長崎街道楽しんで歩きたいと思う。
大村宿から彼杵宿まで
歩行距離 19.7キロ
歩行時間 4時間26分